sasanoji電台【台湾ポップス専門】

こちらはsasanoji電台第1廣播、TW-POP専門チャンネルです。

張懸、3年ぶりにニューアルバムをリリース。

張懸Deserts Xuan『神的遊戲』(2012)

Deserts-xuan2012
こちらは裏面になるのかな?フォトフレームをイメージさせる。

 

張懸(ジャンシュエン)。1981年台湾生まれ、本名は焦安溥(ジァオアンプゥ)。『張懸』はアーティスト名です。2006年にメジャーデビューしたインディーズ出身の弾き語り系実力派女性シンガーソングライターです。

 

8月10日、張懸は2009年の『城市』以来となる新作、4thアルバム『神的遊戲』をリリースします。

『神のゲーム』と名付けられたこの作品では、過去から現在に続く、人、事象、物、全ての間にある流動的な縁を、『神』と表現しています。全曲が彼女の手によるもの。プロデュースも自身が手掛けました。

 

首波主打『艷火』。

 

ギター片手に弾き語るタイプの女性シンガーソングライターと言われてまずイメージするのは、やはり陳綺貞Cheer Chen、そしてこの張懸ということになるのでしょうか。たしかにどちらもフォークロックスタイルで、比較対象されることが多いようですね。

ミントチョコのように一瞬ざわめいてスゥッ…と抜けてゆく軽やかな甘さの陳綺貞に対して、張懸は舌の根でジィ~ン…と余韻を引きながら訴えてくるホロ苦いビターチョコのよう。陳綺貞を陽光とするなら張懸は月光。それは彼女たちそれぞれが歩んできたステージにそのままつながるイメージです。どちらもメッセージ色の濃いアーティストだけど、より強く感じるのは張懸のほうです。だからちょっとクセがある。恋の歌にしても極めて内省的。文学的色彩の濃いアーティスト、という印象です。

 

張懸は今年31歳になりました。これまで恋愛話はいくつかありましたが、いずれも長続きしていないようです(彼女の家柄に男どもが恐れをなす、という話もある^^)。でも今お付き合いしている男性(李建常)とは上手くいっているのでしょう、結婚について記者から尋ねられると『ずっと結婚しないかもしれないし、明日するかもしれない』と、やんわり笑っていなしていました。発表されたショットでもかなり女性らしさが増しているように見えますね。

この3年間の経験が作品にどう反映されているのか、楽しみです。

 

出自の特異さで彼女に勝るアーティストには、そうはお目にかかれないのではないでしょうか。

張懸のお父さん・焦仁和(ジァオレンホァ)は、中国大陸との交渉窓口機関『海峡交流基金会』の副董事長を1993年から5年間に渡って務めた人物で、台湾や中国大陸のみならずアジア地域でも名を知られる大物政治家です。お母さんも中華民国婦女連合会の委員を務め、大学では教鞭をとるキャリアウーマン。お祖父さんは前最高検察署主席検察官、お兄さんは著名なクラシック評論家です。それからとても仲の良い妹さんが1人います。

張懸は16歳のとき高校を中退しました。酒もタバコもやる、手に負えない反抗的な少女だったそうです。彼女の内に渦巻く感情は出自からくるプレッシャーへの反発ではなく、自分を型に填めようとする学校教育への不満から生まれたものでした。思春期にはさして珍しくもない話でしょうか…。でも彼女の場合、政治や社会への問題意識を常に身近に感じられる環境にあったことも少なからず影響していたように思えてしまいます。飾らないクールなスタイル、自分を曲げない頑固さ、義を重んずるようなちょっとオトコマエな生き方…。今も彼女の絵姿から感じられるそんな様子は、当時とそれほど変わっていないのかもしれません。昨年12月には中国広東省烏坎村で発生した大規模な住民運動烏坎事件)を支援する旨の声明文を、躊躇することなく大陸のSNS・豆瓣(douban)などネット上で発表しています。

 

張懸が楽曲創作を始めたのは13歳、人前で歌うようになったのは16歳の頃です。彼女は高校を辞める前、自分は勉強をしたくないわけじゃなくてもっと大きな志があるのだ、ということをどう両親に説明したらわかってもらえるか、さんざん悩んだそうです。ところがお父さんに話してみると、意外にもあっさりと『よし、わかった』、と。

2007年に2人はインタビューの中で当時のことを振り返っていますが、張懸はそのときかつてないくらい強烈なインパクトを受けたと語っています。これは自身で決定したことであり、自分は独立した一個人なのだということをハッキリと自覚させられたと。

張懸は高校を辞めたあとイギリスに1年ほど留学(下宿先の門限の厳しさに耐えられず1年しかもたなかったらしい^^;)。帰国後、インターネットで作品を発表したり小さなライブで歌ったりするうちクチコミで名が知られるようになり、19歳(2000年)のとき、プロフィールにも詳細が出ていないのでどこのレーベルかわかりませんが、一度レコード会社と契約をしています。結局そのときは会社内部のトラブルでデビューには至らなかったようですが。[*1]

ん…?2000年といえばたしか、Sonyで大規模な組織改編があった年ではなかったでしょうか。Sonyはこの騒ぎで才能あるアーティストを何人も手放しているはずです。ひょっとするとそれかな?

2003年、インディーズで活動していた張懸は再び注目を集める機会を得ます。春の『墾丁』と並ぶインディーズの祭典、新北市の福隆海水浴場で毎年7月に開催される『貢寮國際海洋音樂祭』の第4回大会[*2]に、5人組バンド・芒果跑樂團Mango Runsのボーカルとして出場。見事、獨立音樂大賞と最佳人氣獎を受賞したのです。このときの様子は2004年公開のドキュメンタリー映画『海洋熱』(監督:陳龍男)で見ることが出来ます。

同年8月には台湾MTVの企画で、Mango Runsを含む入賞バンド4組によるコンピレーションAVCD『Mod's Rock摇滚能量』もリリース。『畢竟』と『並不』の2曲がMVと共に収録されました。2007年リリースの2ndアルバム『親愛的...我還不知道』に入っている同名曲はそのリメイク版です。

さらに同年12月、香港作曲家及作詞家協會(CASH)が主催する『第15屆CASH流行曲創作大賽』に張懸はソロナンバー『就在』で参加しグランプリを獲得。これでシンガーソングライターとしての実力はじゅうぶんにアピール出来たはずなのですが、なぜかその後も表舞台に出ることなく、インディーズを活動の中心としています。

 

『畢竟』(2003年)。おそらくコンピレーションアルバム収録のMVだと思う。若~い!髪の毛、短~い!下は映画『海洋熱』の予告編。

 

2005年3月31日、張懸は自身初のアルバム『Maybe I Don't Care』をリリース。といっても、蘇打綠Sodagreenの青峰ら友人たちに手伝ってもらった自主製作CDで、その日ライブに来てくれたお客さんに僅かな枚数が配られたのみでした。メジャーデビューしたのはその翌年の2006年、25歳のときです。Sony BMGから正式リリースした1stアルバム『My Life Will...』は、曲順こそ違えど『Maybe I Don't Care』が丸ゴト収録された、まさしくそのものです。一部資料によると使用音源のほとんどは2001年の録音となっているようですが…。Sony BMGからデビューしたことを考えると、やはり彼女が2000年に契約したレーベルはSonyだった可能性もアリでしょうか。それならば古い音源が出てきたとしても合点がいく話ですが…。[*3]

 

1stアルバム『My Life Will...』から、彼女の名を一躍知らしめることになった曲『寶貝』。

 

『寶貝』には『in the night』版と『in a day』版の2バージョンがあって、コチラはラスト11曲めに収録されている『in a day』版のほう。

 

デビューアルバム『My Life Will...』は2006年度の十大優良專輯に、『寶貝』は十大優良單曲にそれぞれ選ばれたほか、2007年第18屆金曲獎では最佳年度歌曲獎、最佳國語專輯獎、最佳作曲人獎、最佳作詞人獎の4部門にノミネートされました。こちらは惜しくも受賞はなりませんでしたが、本人はむしろそれを好ましく思っていたようです。有名になりすぎると却ってプレッシャーになって、自分のやりたいことが出来なくなってしまうと。

実際、このアルバムのプロモーションを終えた直後から新たにエレキギターの練習に取り組んでいますが、彼女にアコースティックなフォークスタイルを見ていた人にとってはちょっと意外だったのではないでしょうか。その腕前は2007年リリースの2ndアルバム『親愛的...我還不知道』の中で披露されることになります。[*4]

 

2ndアルバム『親愛的...我還不知道』から、『並不』と『喜歡』。

 

本格的にエレキサウンドを投入してロック色が強まったように感じてしまうところですが、OPの『畢竟』は2003年の海洋音樂祭で既に歌っている曲ですし、張懸はもともとロッカーだったということでしょう、生き方も、考え方も。むしろソウルシンガーに近いのかもしれない。

張懸はこの作品から楽曲創作者名に本名の『焦安溥』を使っています。前作で父親の名を借りずとも自分で道を切り開けると証明出来た。これからは両親に自分が書いた曲を誇りを持って聴いてもらいたい、そんな気持ちからだったそうです。

 

2009年リリース、3rdアルバム『城市』から、タイトルナンバー『城市』と『Beautiful Woman』。[*5]

 

3rdアルバム『城市』は都市をテーマとしたコンセプトアルバムです。新たに作られた曲は4曲のみで、それ以外はこれまでに作った曲の中からイメージに合うものをチョイスしています。『Beautiful Woman』は何年も前からライブで歌っていた曲。タイトルナンバーの『城市』などは2004年の作品とのことです。また、このアルバムは前年に成立した自身のバンド・張懸&Algaeとしての作品でもあります。[*6]

 

ロックです。

僕が張懸から受けるイメージはフォークではなく、純然たるロック魂ですね。レーベルの思惑など意にも介さず、ちょっとどいてと肘鉄イッパツ喰らわしていくような^^。

たぶん初めて張懸を意識して聴いたのが、この『城市』だったからだと思います。CDではなく、当時、台湾国際放送の音楽番組で紹介していたのを聴きました。CDを購入したのは東日本大震災以降のことです。2007年にも『親愛的...我還不知道』を取り上げているようなのでひょっとしたら聴いていたかもしれませんが、記憶にありません。まだC-POPにどっぷりとハマる前、BGMとして聴き流していた頃の話です。

僕は過去に遡る形で聴いていったので、彼女が変わっていく過程をリアルに体感することは出来ませんでしたが、逆にその変化を冷静に楽しむことが出来たのではないかと思っています。

張懸は7月29日、フジロックフェスティバルのステージに出演の予定です。

 

今回は台湾インディーズの横のつながりの濃さと複雑さを改めて感じました。ココがつながっていたのかと新たな発見がたくさんありました。

台湾は九州サイズの島国ですが、その中に存在するレーベルは大小合わせて700超(ほとんどが小)。このサイズと数こそが、台湾インディーズを熱く濃くしている源なのではないかという気がします。

 

かなり深い穴になってしまいました。

張懸については、いつか取り上げようとアチコチにメモを残していたのですが、どうにもまとまらず放置状態でした。今回、新作が出るということでなんとか寄せ集めましたが、消化不良です。

 

* * * * * *

脚注

*1:張懸がライブハウスで歌っていた下積み時代の時給は僅か80元(280円)ほど。ライブでは着るものにも頓着せず、だらしない格好で歌っていました。お客さんが5人だけ、なんてこともあったそうです。そのとき奥に座っていた2人はカップルで、聴いているかどうかわからない。前に座っている3人は、心配したお父さんに頼まれて様子を見に来た張懸の妹さんとその友だちだったそうです。

*2:張懸がMango Runsのボーカルとして出場した2003年の第4屆貢寮國際海洋音樂祭。この大会終了後、Mango Runsを含む入賞4バンドによるコンピレーションアルバムが制作されました。その中に僕でも知っているような、現在のTW-POP界をリードするアーティストが何人かいます。海洋大賞、この音楽祭のグランプリに相当する賞ですが、これを受賞した潑猴樂團Monkey Insaneには現在魔幻力量Magic Powerのベーシストとして活躍している凱開とドラマーの阿翔が在籍していました。正確には2007年に潑猴が解散したのち結成されたのがMagic Powerということになります。評審團大獎を受賞したSTONE、のちにバンド名を六甲樂團Six Plusに改名しますが、ピンと来ました?そうです、ココのキーボードは阿福や謝和弦のアルバムでお馴染みの何官錠ですね。Mango Runs自体については不明な点が多いです。2004年には既に解散。ギターの郭人豪は董事長樂團The Chairmanに在籍していましたが、現在は離団。ドラムの王誌緯は四分衛樂團Quarterbackで現在も叩いています。ベースの喬培修、キーボードの李孟崇もどこかでやっていると思いますが、よくわかりません。王誌緯が在籍する四分衛は1993年結成のベテラン組で、メンバーの林奧迪は戴佩妮Penny Taiのバンド・佛跳牆Buddha Jumpのベーシストも務めています。

*3:1stアルバム『My Life Will...』では、編曲・ギター演奏等で陳綺貞の男朋友・鍾成虎(ジョンチャンフー)が多く関わっているのが興味深いです。

*4:2ndアルバム『親愛的...我還不知道』にはベテラン女性シンガーソングライター・黃小楨(ホァンシャオジェン)がコーラス&ギターで、陳建騏(ジョージチェン)がキーボードで参加をしています。黃小楨は張懸が好意を寄せているフォークシンガーで、当時はHit FMでDJもやっていました。

*5:『Beautiful Woman』は、ときに女性よりも女性らしい男性同性愛者たちに触発されて作った歌。

*6:張懸は2008年から新しいバンド・張懸&Algaeをスタートさせますが、じつはその前にもう1つバンドを挿んでいます。いつ成立したのかは不明ですが、打嘟嘟樂團というAlgaeの原型となるバンドです。このバンド名はおそらく年長者であるベーシストの嘟嘟を立てて付けられたのではないでしょうか。嘟嘟は先日ピックアップした黃玠や吳志寧のバンド・929樂團のベテランベーシストです。台湾では掛け持ちが多いですね。その後嘟嘟は絲襪小姐Miss Stockingのベースもやることになり、2008年4月に円満退団。代わって雞毛が入団してメンバーが固定、バンド名をAlgaeに改めました。当時のAlgaeのメンバーを紹介すると、ボーカルの張懸、ギターの杉特、ドラムの凱同の3名が打嘟嘟樂團からスライド。それにベースの雞毛が加わった4名体制です。杉特は2002年に結成した阿霈樂團(原名・夢露樂團Dream Route)の元ギタリストで、既に2007年リリースの2ndアルバム『親愛的...我還不知道』にギタリストとして参加、ライブにも同行していました。現在は2009年に結成したバンド・The Littleのギタリストを務めています。ちなみに阿霈樂團というのは“台湾の広末涼子”こと季欣霈(アーペイ)がボーカルを務めていたバンドで、杉特はオリジナルメンバーでしたが2005年に退団しています。その後メンバーの兵役で活動が困難となり、2007年に解散しました。ドラムの凱同も2ndアルバム『親愛的...我還不知道』で既に参加をしていました。Tizzy Bacの初代ドラマーで、2003年から2010年まで薄荷葉樂團The Peppermintsに在籍(2005~2007年は兵役)。現在は来日経験もあるスリーピースバンド・銀巴士Silverbusのドラマーを務めています。彼もライブに登場すると会場が沸く、アーティストたちにも人気の高いドラマーです。銀巴士は2009年に熊寶貝樂團Bearbabesの元ギタリスト・Fooと、日本のインストバンド・TONICの元ベーシスト・Iida(日本人です)らによって結成されました。凱同は2代目のドラマーです。Iidaは語学留学中に参加していたようで、残念ながら今年の春にカリキュラムが終了したらしく日本に帰国してしまいました。アメリカの雑誌『TIME』にも名前が出たことのある、玄人ウケしそうなシブ~いバンドです。Algaeのドラマーは2010年から凱同に代わって元・拾參樂團の文碩が務めています。じつは彼こそが銀巴士の初代ドラマーでした。つまりドラマーが入れ替わった形ですね。文碩は自身の音楽理念を追求するため銀巴士を離団し、Algaeの雞毛と別のバンドを組むつもりだったようですが、なんだか複雑なことになっています。嘟嘟に代わって入団した雞毛は、ベテランインディーズバンド・失控樂團Out of Controlの元ベーシストです。詳しい経歴が出てきませんが、五月天のベーシスト・瑪莎のエンジニアを務めたこともあるのだとか。