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『霧社事件』について。

8月7日の台湾国際放送ミュージアム台湾・台湾博物館』の後半では、いよいよ現地公開が来月に迫った魏德聖(ウェイダーション)監督の最新作『賽德克・巴萊』(セデック・バレ)の話題に合わせて、この映画で取り上げられている、今から81年前、1930年に発生した台湾原住民族・セデック族による最大の抗日事件『霧社事件』について、関係者へのインタビューを中心に、日本人アナウンサー・高野華恵さん、台湾人アナウンサー・荘麗玲さんが紹介しています。

 

霧社事件、台湾では今年、例年にも増して注目を集めているそうです。

霧社は、台湾のちょうど真ん中、南投県北東の山間(現在の南投県仁愛郷)にある集落です。その南投県にはタイヤル族ブヌン族、ツォウ族、サオ族、そしてセデック族などの原住民族が多く居住していますが、中でも霧社という場所には昔から主にセデック族が暮らしています。


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山に囲まれたこの静かな集落で、1930年10月、当時台湾を統治していた日本に対するセデック族による大規模な抵抗運動『霧社事件』が起こりました。頭目のモーナルダオ率いる群集は派出所を襲ったあと、運動会が行なわれていた小学校を襲撃。女性と子供を含む日本人134人が惨殺されるという大惨事となりました。事件はこれで終わらず、日本側はただちに警察隊や軍隊などを派遣して応戦。最終的に抵抗運動に参加したセデック族350人以上が殺害され、自殺した人は200人以上、さらに生き残った人々も捕らえられ、また強制移住させられたりしました。

 

今でこそ植民地支配への勇敢な抵抗や、民族の誇りを賭けて戦った人々として社会の尊敬を集めているセデック族ですが、以前は台湾原住民族のなかで2番目に人数が多いとされるタイヤル族の支族とみなされていて、その存在はあまり知られていませんでした。近年の研究でこの霧社事件の詳細が明らかになるにつれて、セデック族の民族としての独自性を尊重する気運が高まり、2008年に14番目の中華民国政府認定原住民族に認められ、一気に注目されるようになりました。昨年は事件から80年目という節目であったことから、馬英九総統自ら慰霊碑の立つ事件の現場に赴きました。また毎年8月1日は原住民族の記念日となっていますが、今年は野党民進党の次期総統候補・蔡英文主席が記念碑を訪れ、祈りを捧げたとのことです。

 

台湾ではこのセデック族ブームに乗じて、中には愛国心を強調するような政治的主張をする向きも垣間見えるようになっているこの頃…だそうですが、当のセデックの人々は、民族の歴史と誇り、文化が尊重されるようになったことに感謝しながらも、複雑な歴史を胸に、静かに生きているようです。

霧社事件で生き延びたセデックの末裔、地元霧社の小学校で教師をしている高裕明さん(民族名タダオナウイさん、31歳)のお話です。霧社事件に関わった重要人物としては、抵抗運動を率いて最後には自殺したモーナルダオのほかに、『花岡』姓を持つ2人の警察官が知られています。高裕明さんはその孫にあたる方です。

私の祖父と祖母がまだ子供だった時期、台湾は日本の統治下にありましたので、原住民族の子供たちも日本の小学校に通っていました。そのなかで成績がとくに良かった男の子と女の子が2人ずつ選ばれて、模範児童として日本の名前をもらうことになりました。男の子はそれぞれ『一郎』と『二郎』、女の子は『花子』と『初子』という名前になりました。その後、一郎は花子と、二郎は初子と結婚したんです。二郎と初子が私の祖父と祖母にあたります。一郎夫婦と二郎夫婦、この二組の夫婦は仲良くやっていたようですが、でも模範原住民として日本に結婚を勝手に決められた…と言う人もいます。一郎と二郎は同じ『花岡』という名字でしたので、兄弟だと勘違いする人もいるようですが、まったく血縁関係は無く、同じ名字を与えられただけです。ただ、花子と初子はいとこ同士でした。そういうわけですから、花岡の子孫といっても私にはまったく日本の血は入っていません。ですがあちこちで花岡二郎の子孫と言われますし、祖母は1996年に亡くなりましたが、家では日本語を話していたので、私も少しだけ日本語がわかります。ちなみに私の中国語の名字は『高』ですけれども、これは私の祖母・初子が戦後に使うようになった中国語の名です。祖母は日本時代、『高山初子』と名乗っていましたので、『高』という名字は『高山』からとったものなのかもしれません。

花岡二郎と初子との間に出来た男の子が私の父です。私は祖父には会ったことがありません。祖母とは亡くなるまで一緒に暮らしていましたが、霧社事件のことはあまり多くを語ろうとはしませんでした。私が聞いているかぎりでは、祖母はその日、日本人の小学校の運動会を見に行っていて事件に遭いました。祖母はもちろん原住民族の顔立ちをしていますが、和服を着ていたので日本人だと間違われ、危険を感じたので校長先生の宿舎に逃げ込んだと言っていました。そこには既に、大勢の人が死んで横たわっていて、祖母はその中に紛れて死んだフリをして何時間もずっとそのまま耐えて難を逃れたんだそうです。

花岡一郎と二郎は模範原住民として警察官になっていました。つまり日本側の人間でした。ですが花子と初子の父たちは民族の名士のような存在でもあり、抵抗運動に積極的に参加することを選びました。警察官としての立場と、原住民族としての気持ちの板挟みになった一郎・二郎夫婦は、自殺を決意しました。一郎夫婦は事件発生から3日目に、小さな子供と一緒に割腹自殺しました。2人は和服姿だったそうです。二郎夫婦、つまり私の祖父と祖母も首を吊ろうとしました。ですがそのとき、祖母である初子のお腹には赤ん坊がいました。私の父です。祖父・二郎は、『お腹の子供のためにおまえは逃げろ』と言い残し、自分だけ命を絶ちました。祖母・初子は9ヶ月近い大きなお腹をかかえて、まる2日間以上かけて別の集落に逃げました。

私の一家の話はあまりにも悲しすぎます。悲しすぎて私もあまり考えたことはありませんでした。近年学者などが歴史を調べるために、花岡家の生き残りである私を訪ねてきたりするようになり、ようやく私自身も自分の家族の歴史を知らなければならないと思うようになりました。この事件についてどう思うかとよく訊かれますが、とても一言で言い切れるものではありません。ですが、とても悲しいけれど、このときにもしも祖母も亡くなってしまっていたら、私の家族の歴史はそこで終わっていました。私も今、ここにはいないわけです。ですからやはりこの歴史に感謝して、命あることに感謝して、しっかりと生きていきたい、そう思っています。

 

そのときのお腹の赤ん坊、つまり高裕明さんのお父さんは『花岡初男』と名づけられて、戦後は村長に相当する郷長を何期も勤めた霧社の名士的存在となりました。
高さんのお祖母さんが逃げた先は、事件のあと日本による反撃から生き残ったセデック族の人たちが強制的に移住させられることになる、当時は『川中島』と呼ばれていた、文字どおり川で隔てられた陸の孤島のような荒れた不便な場所で、一から切り開いていかなければならなかったため、残された人たちの生活は苦労を極めたそうです。今でも地元の人たちはそこを『川中島』と呼んでいるとのことです。

 

自分たちの祖先がこれだけ悲しい歴史を背負っているセデックの人たちですが、日本に対するマイナスの感情を口にする人は不思議なほどに少ないそうです。憎しみよりも、お互い理解しあうことが大切、歴史は歴史だという解釈が暗黙のうちに広がっているのではないか…という印象を、荘麗玲アナは語っています。

再び高裕明さんのお話です。

あの事件は、異なる文化の衝突によって起こった悲劇だと私は考えています。たとえば私たちセデック族の言葉で『バカラ』という言葉があるんですが、これはモノを勧められたときに『もう充分です』という意味の、婉曲な断り文句なんです。ですが日本人にお酒を勧められ、『バカラ』と言って断ったつもりが、『バカ』と聞こえてしまい相手をとても怒らせてしまった、こういう行き違いによる気持ちのぶつかり合いがたくさんあったと聞いています。互いに相手ときちんと理解し合わずに、誤解や憎しみが重なっていったことが、あのような凄惨な衝突に繋がる背景にあったのではないでしょうか。
去年2010年は、私の祖父も亡くなったあの霧社事件からちょうど80年目で、事件のあったこの小学校の跡地で記念セレモニーがありました。そのときのテーマは悲しみでも憎しみでもなく、愛と平和でした。それこそが、あの事件が私たちに教えてくれた教訓なのだと、私は思っています。

 

9月公開『賽德克・巴萊』(セデック・バレ)の予告編です。

 

今年72歳、事件後生き残って川中島強制移住させられた両親との間に生まれ、川中島で育ち、今では『清流』と呼ばれているその同じ場所に暮らす日本語の上手なおばあさん、日本名『ハル子』さんは、今でも集落の人には『ハル子さん』と呼ばれています。セデック名ではハボマニスさん。シャキシャキとした元気でかわいらしいおばあさんです。彼女はこの川中島で苦労をしながらも、『日本のひとにいろんなことを教わった。みんな日本、大好きよ』、そう話してくれたそうです。荘麗玲アナによると、その言葉はけっして余所行きのお世辞などではなく、毎日を前向きに、そして明るく頑張って生きてきた72年間の人生から自然にこぼれ出る言葉に聞こえた、とのことです。